『長崎を上演する』
長期プロジェクトである「上演するシリーズ」最初の作品。複数の劇作家が被爆(被曝)都市である長崎を訪れて執筆した複数の戯曲をまとめて一つの作品とし、マイムを用いて上演するという形式で行なった。試演会を四回重ねて2015年8月に総集編を上演し、2016年3月には愛知県芸術劇場で新作を加えて再構成した上演を行なった。
『長崎を上演する』 →





演劇の上演を場面として考えてみる。画面ではなく場面である。
絵画における画布(カンバス)、映画における白幕(スクリーン)、写真における印画(プリント)など、視覚・映像メディアには物質的な支持体としての画面がある。演劇は、そのような画面を欠いている。
一方で、演劇の場面はタブローとしての切り取られた輪郭を形成する。それを構成する要素が身振りであり、身振りは場面内で徴(しるし)・記号(サイン)として機能し、戯曲の言語に還元されることのない場面の力を生成する。
演劇の場面を画定する輪郭線は物質ではないし、観ている者のイメージに働きかけることで生じる想像のフレームでもない。それは、身振りを発火点としてつくられるスペクタクルの力であり、その力が演劇の輪郭を、すなわちタブローとしての場面を支えているのである。
アントナン・アルトーは演劇がタブローである決定的な事例を、ルーカス・ファン・ライデンの一枚の絵「ロトとその娘たち」に見ている。そこには、暗黒の天空からいくつもの火球が飛来し崩壊するソドムの街を背景に、その災厄を逃れたロトとその娘たちによる俗悪なドラマが描かれている。だが、このタブローの異様な迫真性は創世記に記されたドラマの再現をはるかに超えている。それは、破局の観念の現出であり、大異変のさなかの大気をタブロー全体にみなぎらせている。アルトーは、このタブローに描かれた驚異の光景を演劇こそが創り出すべきものとして呈示したのである。
しかし、それにしても、崩壊を被った街のことをどう演劇にすることができるというのか。広島を上演しようとしている私たちはこの問いの前に立たされている。
確かに「広島」という名前のはらむ意味は多様であり、重い。「ヒロシマ」と表記されたならなおのこと強い意義を発してくる。同時にそれは「風化」という広島の記憶の消失の危機をともなってもいる。81年という年月が風化させているだけではなく、「ヒロシマ」に核被害の記憶と象徴を封じ込めることで風化は進行したとも言える。
原爆ドームを前にしたときの、あの何とも言えない感覚。こちらがたじろぐほどにあっさりと廃墟のままに建ちつづけ、今も人々の視線に曝されている。この異様な建築物(特異なモニュメント)は風化に抗しているのか、それとも風化を促しているのか。戸惑いは、この判別不可能な見分けがたさからきている。
だが、ここでアルトーがライデンの絵に見ていたものに立ち返るなら、アルトーの慧眼は、都市の崩壊と人間の生殖の俗悪さが渾然一体となり未曾有の出来事として描かれたこのタブローにおいて、その見分けのつかない滅亡と生のありさまに当惑するどころか、それを崇高な破局の観念として、一種の身体の形而上学として明晰に受容可能だとしたことにある。
精神と身体にまるごと直で訴えかけてくることを上演する。そのためには身体的言語が必要だとアルトーは言うのだが、無論、私たちがそれを身につけているわけではない。
ヴァルター・ベンヤミンは歴史の時間イメージをクレーのタブロー「新しい天使」に見ている。その天使の眼差しはまっすぐに過去を向いている。人間が事件の連鎖に気を取られてばかりいるのに、歴史の天使は廃墟を、それも今まさに起き続けている破局のために積み重なってゆく廃墟を一心に見ざるをえないのだ。なぜなら、過去から天使の背中のほうの未来へと吹く進歩という強風で翼を閉じることができず、煽られっぱなしだからだ。
私たちにはこの眼差しでさえ手に届かない思いがする。それでも、この天使の懸命で滑稽な姿勢だけでも創作の指針としたいのだ。
「上演するシリーズ」は、被爆(被曝)都市をテーマにしたマレビトの会の長期プロジェクトです。2013年から2018年にかけて、長崎、福島を取材して『長崎を上演する』、『福島を上演する』という作品を制作してきました。シリーズ最終作となる『広島を上演する』では、広島へと場所を移して、演劇作品を創作します。
これまでの「上演するシリーズ」では、複数の劇作家が、それぞれ被爆(被曝)都市を訪れて取材をし、戯曲を執筆してきました。それらの戯曲を構成して、1回ごとに異なる作品を上演します。上演形式においても、小道具を用いないマイムや舞台装置のない簡素な舞台上で上演するという特徴がありました。
『広島を上演する』においても、複数の劇作家が参加するほか、演出家や俳優、スタッフが集団で創作を行なっていきます。今後、集団創作のプロセスを経て、2027年2月から約1か月の間、毎週火曜日に三鷹SCOOLにて上演やイベントを行なう予定です。なお、上演に先立って、このウェブサイトで論考や対談を随時公開していく予定です。
長期プロジェクトである「上演するシリーズ」最初の作品。複数の劇作家が被爆(被曝)都市である長崎を訪れて執筆した複数の戯曲をまとめて一つの作品とし、マイムを用いて上演するという形式で行なった。試演会を四回重ねて2015年8月に総集編を上演し、2016年3月には愛知県芸術劇場で新作を加えて再構成した上演を行なった。
『長崎を上演する』 →




前作『長崎を上演する』の形式を踏襲しながら、場所を福島へと移して「上演するシリーズ」二作目をフェスティバル/トーキョーにて発表した。2016年は学校の体育館を改装したにしすがも創造舎、2017年は西池袋の小劇場シアターグリーンBASE THEATER、2018年は東京芸術劇場シアターイーストと毎年異なった劇場で上演を行なった。
『福島を上演する』→ フェスティバル/トーキョー特設ページ →


素舞台でマイムを中心とした「上演するシリーズ」の手法を踏襲しながら、ニュータウンで起きた連続殺人事件を背景に市井の人々の生活を描いた作品。小津安二郎の映画『お早よう』を参照し、舞台上の身振りと戯曲の言葉という二つの時空間によって「東京」という現実を浮かび上がらせることを試みた。2021年9月に城崎国際アートセンター(兵庫)、愛知県芸術劇場小ホールでの上演を予定していたが、全国的な新型コロナウイルス感染症拡大に伴い、いずれも公演中止となった。
『グッドモーニング』 →マレビトの会として初めて制作した映画作品。「上演するシリーズ」で劇作や俳優として参加していた三間旭浩、山田咲、草野なつか、遠藤幹大が監督する短編で構成されたオムニバス映画。2023年11月に東京フィルメックスに正式出品された後、渋谷のユーロスペースで劇場公開されたほか、広島の横川シネマでも上映された。
映画『広島を上演する』 →



マレビトの会としては8年ぶりとなる演劇作品。松田正隆が作・演出を務め、三鷹SCOOLにて上演を行なった。マイムや素舞台といった「上演するシリーズ」の上演形式を踏襲しながら、語りと会話が混ざり合うような新たな表現方法を試みた。
『皿の上の見えない人間』 →




「上演するシリーズ」三作目で最終作となる作品。『長崎を上演する』、『福島を上演する』と同様に、複数の劇作家が広島に訪れて戯曲を執筆し、毎回異なる演劇作品を上演する。前作『皿の上の見えない人間 Invisible woman on the plate』と同じ三鷹SCOOLで約1か月に亘って、毎週決まった曜日に1回上演を行なう。
2003年、舞台芸術の可能性を模索する集団として設立。代表の松田正隆の作・演出により、2004年5月に第1回公演『島式振動器官』を上演する。『クリプトグラフ』(2007)では、カイロ・北京・上海・デリーなどを巡演。
被爆都市である広島・長崎をテーマとした『声紋都市ー父への手紙』、『PARK CITY』、『HIROSHIMAーHAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』からなる「ヒロシマ―ナガサキシリーズ」(2009-2010)、震災と原発事故以後のメディアと社会の関係性に焦点を当てた『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)などでは集団創作に重きを置くとともに、展覧会形式での上演や、現実の街中での上演、インターネット上のソーシャルメディアを用いた上演など、既存の上演形式にとどまらない、さまざまな演劇表現の可能性を追求した。
2013年より始まった、ひとつの都市を複数人の作家が訪れ、そこで見聞きしたことから戯曲を書き、その上演を行うということを繰り返す長期的なプロジェクト「上演するシリーズ」では『長崎を上演する』『福島を上演する』を経て、現在『広島を上演する』に取り組んでいる。ドラマ演劇を再考することで、単なる戯曲の再現にとどまらない「出来事の演劇」が劇場空間に生成されることを目指す。
演劇における上演形式を大きく変化させながらも、未曽有の出来事を経験した都市をテーマに、歴史に回収されえぬものを探り、描き続けている。
マレビトの会 →